鉱山の中枢にあったレンガ造りの総合事務所には炭坑マンの為に共同浴場がありましたが、海底で作業に従事した炭鉱マンは全身石炭で真っ黒、浴槽はいつも真っ黒だったそうです。
浴槽も三つあり一つ目の浴槽には作業服のまま入り、二つ目の浴槽(海水)で体を洗い、三つ目の浴槽(真水)で上がり湯して着替えてから自宅に帰って行ったそうです。
鉱山施設は現在ほとんどが崩壊していますが、第二堅抗へ行く桟橋の昇降階段部分が辛うじて残っている軍艦島の主力抗だった第二堅抗坑口桟橋跡。
島にある灯台は炭坑が閉山し無人島になってから建てられたものです。
近付く事は出来ませんが桟橋からみて一番右にある70号建物が「端島小中学校」。
1893年三菱社立の尋常小学校が岩礁の上に設立され現存の建物は昭和33年に建設されました。
1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校で6階には講堂・図書館・音楽室があり、昭和45年(私が2歳の頃)には体育館や給食設備も新設され給食を運ぶ島で唯一のエレベーターもありました。
その手前は精炭(精選された石炭)を貯炭場まで運んだベルトコンベヤーの支柱が残っています。
島の見所をガイドさんお手製の資料で説明してくれます。 今回のガイドさんは若くテキパキと説明してくれましたが、他社では元島民のガイドさんもいらっしゃるのでそこも選択肢の一つです。
大手だと一度に100名以上案内しますが、今回のシーマン商会さんは少人数だったのでガイドさんの話しもしっかり聞けたのでこれはこれで良しでした(^ ^)
昭和33年に完成したプールは以前小中学校の前にありましたが、台風で大破し岸壁近くに移転されました。
25メートルプールと幼児プールがあり、共に海水を利用していました。
耳を澄ませば、その当時に行われていた水泳大会の歓声が聞こえてきそうな気がします。
明治時代島のかくちょうに伴う護岸づくりは、石炭と赤土を混ぜた天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤を用いた石積み工法でした。
名残惜しいですが島を離れる時間がやってきました。帰りも乗船の際船員の厳しい指示が飛び交います。
桟橋が一つなのでクルーズ船各社は時間をずらして運航しており、午前午後合わせると1日で結構な数のクルーズ船が往き来しています。
本来なら上陸出来ない島の反対側をクルーズ船から見るのですが波が高くこの日は断念、でも一度諦めた軍艦島に上陸出来たので贅沢は言いません。
端島は海底炭鉱の島で岸壁が島を囲み、高層鉄筋住宅が立ち並ぶその外観が軍艦「土佐」に似ていることから名付けられた軍艦島。
遠目から眺めるとまさに島全体が軍艦のようです。
エネルギーの主役が石油に代わるまで日本の近代化を担った石炭、それを昼夜問わず命懸けで掘り続けた炭鉱マンの汗と誇りが詰まった軍艦島。
建物がいつ崩壊するかは神のみぞ知るところですが、現存の建物があるうちに長崎に行かれたら是非訪れてその歴史に触れて下さい。
乗客は軍艦島の興奮ですっかり忘れていた波の恐ろしさ、帰りは死者の数もさらに増え船内のトイレは大行列。 スタッフがゲ〇袋を持って船内を走り回る地獄絵図の中、相方の頭はこっくりこっくり・・・
やっと穏やかな長崎港に入港、右手の山腹には日本に現存する最古の木造洋風建築物「旧グラバー住宅」が見えます。
優雅な撮影タイムはここまでで時計の針は16時ちょい前、列車の発車時間も20分しかありません。 ダッシュで下船&タクシーでギリギリ乗車、今回は最後まで天気に右往左往させられました(T_T)
やっと落ち着き朝食以来の食事は長崎名物東洋軒さんの「サラダパン」、コッペパンにハムとマッシュポテトとシンプルですが優しくホッとする味です。
5度目の長崎訪問でしたが今回が一番充実していました。
ガイドさんに原爆の恐ろしさと平和の尊さを教えていただき、自力で街を歩き史跡と偉人の足跡を巡った長崎さるくに日本の近代化を支えた軍艦島の上陸。
グラバー園・ハウステンボス・出島・浦上天主堂などの名所に歴史や愛が詰まった長崎の街、石畳の坂道を歩きながら当たり前の日常のありがたみを感じた2日間でした。
何より機転を利かし素敵な旅にしてくれた相方には感謝、帰りの新幹線でビールいっぱ~い飲ませてあげるね(^^ゞ